連載コラム
バッグ業界の変遷と               構造変化
久 野 康 一

            第2回(全6回)

 前回は、バッグ業界の4つの職種を、成り立ちとともに紹介した。今回はそのなかの一つ、「職人」について、過去から現在までを振り返ってみようと思う。

敬遠されていた職人という仕事
「バッグ職人が足りなくなる」と、最初に言われ始めたのはいつの頃だったろうか。確か、僕がこの業界に入った約30年前には、すでに「このままでは、職人さん達は高齢化とともにいなくなってしまう」と危惧する声がささやかれていた。
 けれど、世の中の景気はどんどん上向きになり、やがて訪れるバブル期の波にのまれ、「職人をやりたい」なんていう若者はまったくいなくなった。今でこそ、モノ作りという仕事に注目が集まり、職人などはアーチストのような扱いをされている。

 けれど当時は企画デザインや販売などという仕事ばかりが人気で、職人は「3K=きつい、汚い、危険」仕事の代表のように言われ、振り向く人は少なかった。当の職人でさえ、自分の子供に跡を継がせる人は少ないくらいだったのだ。
 商品の需要はふくらむ一方の時代に作り手はどんどん足りなくなる。そんな、困った状況だったとき、救世主が現れた。のちに主力となるほど台頭してくる“海外委託生産”だ。

安価な商品を大量に送り出した海外生産
 最初はフィリピン、タイあたりだったと記憶している。人件費の安い国の工場にデザインを送って、そこで大量生産してもらうやり方が始まり出した。

 僕が最初にタイの工場に行ったのは1990年頃のことだと思うけど、広い工場の中に10代の子供たちが200人くらいいて、流れ作業で次々サイフを作っていた。糊を引く子、ヘリ返しをする子、ミシンを踏む子など、それぞれ分業で担当が決まっており、短時間でとんでもない数のサイフを作り上げていく。もちろんテクニックもなく、本当にいいものなんてできるわけないけれど、イタリアから仕入れた革でそれなりのデザインのものを作らせれば、そこそこのサイフを安価で生産することができたのだ。

 同様のやり方は、ほどなく韓国の工場でも行われるようになった。やがて、当時はまだ英国統治だった香港の企業資本が、中国本土の深センをコントロールしてもっと安価に作り始めた。もともと米国輸出向けの生産ルートとして存在していたのが、日本の好景気に目をつけ、素早く方向転換してきたのだ。

 当時、香港で打ち合わせをするたびに、僕は彼らの仕事のキレの良さに感心し、脅威だとさえ思っていたことを憶えている。その感覚はどうやら当たっていたようで、その後香港の中国返還とともにこうした生産委託ビジネスは中国全土に伝播し、今では中国は“世界の工場”といわれるまでに成長している。

国内の職人とともにメーカーも消えていく
 さて、こうして職人不足の心配は解消できたけれど、そこには大きな落とし穴があった。
 技術的に熟練されていない商品を大量に作ったなら、どうしても価格で勝負になる。ましてや、破格に安い人件費で作っているのだから、流通段階の工夫次第では、とんでもない価格で販売することも可能になる。

  こうしてだんだんと値崩れを起こし始めたバッグは、2万円を軽く超えたような商品が、5千円〜1万円くらいで売られるようになってしまった。これでは、国内の熟練職人たちがどんなにいいモノを作っても、「高すぎて売れない商品」にしかならない。ただでさえ海外生産のあおりを受けて仕事が減少していた国内の職人たちは、次々と廃業に追い込まれていった。

  それとともに、職人に仕事を回すことで成り立っていた「メーカー」という職種も不要な存在となった。海外の工場には、問屋が直接生産を発注するので、生産側と問屋側の間で行う下準備の役割がいらなくなってしまったのだ。それでも大手のメーカーは、中国の生産ラインと契約を交わし、問屋とのパイプラインを果たすことで生き残りをはかった。けれど、国内の腕のいい職人に頼った零細メーカーは、このころから破綻が始まる。こうして、高齢化と後継者不足という問題を抱えていた職人の世界に海外生産という圧力が加わり、職人数が激減、その管理をしていたメーカーも撤退の道をたどることとなる。

  最近になり、技術力と利便性の両面から、国内の職人を見直す動きが出てきている。けれど、一度職を離れた職人たちは、高齢で仕事はできないし、後継者は育っていない。まとまった生産数をこなせるだけのパワーは業界にはもうなくなってしまった。技術力の空洞化は、この業界でも深刻な問題なのだ。


前のページ |123456 | 次のページ



                                                                          HOME