エピソードXU ぼくの恩人、駒井さん

1993年の夏だったかな、世の中はバブルが崩壊したころで、ご多分に漏れずアイソラもとても厳しい状況になっていた。そのころはアイソラはOEM専門で、依頼された革小物を各お取引先ブランドの注文のままに作っていた。そして世間がそんな状態だからお取引先も増えないし従来からの注文も激減して、毎日仕事のない日が続いていた。山岡宗八の徳川家康全53巻を何度読み返したんだろう。

そしてぼくは廃業を覚悟して、友人の会社に入社させてくれるよう依頼に行った。そんな話を聞きつけたんだろうな、駒井さんからある日呼び出しがあった。

「久野、お前そんなに苦しいのか」

「廃業して勤めようと思います」

「それだったら最後に自分のブランドを立ち上げて勝負してみろよ。お前ならできる」


ぼくたちは呑むといつもくだらないこと話しては、大笑いしていたな


ぼくは駒井さんとのデュエットが大好きだった。戦前とか戦後すぐのころの唄をよく教えてもらったもんだ


10年以上前には駒井家とカナダにスキーに行った。これはB・コロンビア州の名もない山で、ヘリ・スキーを楽しんだときだ。good skiingだったな

それからは会うたびに雑誌の切抜きやら、新聞のコピーやら、駒井さんの目にかなった他社の製品の写真やこの業界に関係のある情報を切り取っておいて、ぼくに見せてくれた。アイディアばかりじゃなく、資金面でも援助してくれたし、たくさんの人にも紹介してくれた。そのおかげでアイソラ・ブランドも順調に立ち上がり、展示会を開いてもたくさんの客様に来ていただけるような会社になった。だからその後、アイソラの主取引先が倒産して年間売り上げの4分の1が瞬時に紙切れに化してしまう危機に会い、世間ではアイソラはもう駄目だろうなんて言われていたけれど、その時の思いが支えになって、ぼくには絶対に乗り切れる自信がついていた。そんな恩人の駒井さんが、「桜が咲いたら、一杯呑もうな」という約束を反故にして、逝ってしまった。

20年以上前に初めてあった時には、駒井さんはハンドバッグ専門店の大手ナショナル・チェーンの商品部長、ぼくは出入り業者の企画担当という立場だった。そのころの駒井さんは毎年数回イタリアに視察に行って、帰国すると呑みに誘ってくれて、イタリアの最新事情を教えてくれた。その後、駒井さんがスキーを始めて一緒に滑るようになってからは、年こそ1回り違うけれどいい仲間になった。あちこちをよく呑み歩いたな。池袋、浅草、上野、千駄木、東久留米、たまプラーザ、草津、湯田中、勝浦。どこで呑んでも陽気なお酒で、「マンジャーレ、アモーレ、カンターレ」という言葉を教えてくれたのも駒井さんだったし、その言葉を体現していた人だった。


ぼくが、おそばのおいしい店を探し出して、みんなで行ってもりそばを注文すると、「オレ、天丼」なんて意表をついて、唖然としているぼくの顔を見て、ニヤニヤ笑っている人だったな。呑むたびに最後は仕事の話で喧嘩になって、「久野の顔なんて2度と見たくない。付き合いはもう止めた」なんて言っておいて、1週間もすれば「そろそろ呑まないか」なんて誘ってくれる。スキーに行けば、「おいしいお酒を呑めるのならば」などと言いながら、タフなぼくに遅れずについてきた。よく呑み、よく遊んだな。

仕事の時には仕立てのいいグレーのスーツに白いシャツ、小紋のネクタイ、イタリア製の靴、遊びの時には原色の派手なカジュアルウェア、とてもおしゃれな人だった。ぼくはよくまねしたものだ。軽妙洒脱というよりも、ひょうきんでシャレがキツくて、華のある人だった。ぼくが今も着続けているスキーウェアのSOS自由が丘ショップを、まだ更衣室もないできたてのころに探してきたのも駒井さんだったし、まだ誰も知らない頃に目白のパタゴニアを教えてくれたのも駒井さんだった。流行りに関しては誰もかなわない鋭いアンテナを持っていたな。

ぼくは「ハンドバッグが大好きだ」と言うバッグ屋の社長は何人も見てきたけれど、「ハンドバッグは(儲かるから)大好きだ」という人ばかりだった。でも駒井さんはほんとうにハンドバッグが大好きな人だった。1980年前後に、イタリアでもまだ小さなバッグ・メーカーだったプラダを、いち早く日本に紹介したのも駒井さんたちだった。イタリアの皮革製品のすばらしさに気がついて、ファッションとは無縁だった袋物業界を今のように変えたのも、駒井さんたちだった。今、ナショナル・ブランドにヤラレかけているこの業界が、次のステップを探し出すためには、いいアイディアを持っている人のはずなんだけれどな。

そんな駒井さんと、父親のようでもなく、兄貴のようでもなく、友人というよりも軍隊の人好きのする上官みたいな感じで、「この人になら命を張れる」、そんな思いを抱かせるように20年の間つき合わせてもらった。ぼくに悲しいことがあったときには、涙を流してくれた。スキー、海、ハイキング、お酒、カラオケ、毎週のように会っていても飽きない。ぼくたちはウマがあっていたんだろうな。

そんな駒井さんが逝ってしまった。
20年間とても楽しかったです。ありがとうございました。

合掌

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